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1980年代のコモドールと日本

マイケル・トムチュク氏

(元コモドール・インターナショナル社長補佐)
オンライン インタビュー


マイケル・トムチュク氏は、1980年にコモドール社にスカウトされ、以後約四年のあいだ、設立者ジャック・トラミエル氏の片腕となって活躍していました。コモドール在籍中にはVIC-20 [*1], コモドール64 [*2] といったベストセラー機のプランをまとめ、両機の国際マーケティングにおいて指導的役割を果たしています。現在は米国有数のビジネス・スクールであるウォートン・スクールで、マネージングディレクタとしてご活躍です。

コモドールのコンピュータは世界的な人気を誇っていましたが、日本では少数のマニア層に支持されただけで終わりました。しかしコモドールは当時、欧米のどのメーカーよりも強く日本を意識し、日本製品の進出を阻むことを念頭に置いてコンピュータをデザインしていたのです。当時のコモドールは日本に何を見て、日本から何を得ていたのでしょうか。そのあたりを中心に、お話をうかがいました。なお本インタビューは、emailによる質問状およびご回答をもとに構成したものです。



VIC-20 (VIC-1001) についてお聞かせください。The Desert Oasis掲載のインタビュー「VICは一部を日本で開発し、一部を米国で開発した」とおっしゃっていますが、日本のスタッフが開発したのは、具体的にどういう部分だったのでしょうか。


トムチュク氏:
実際のところ、どこまでが日本でどこまでが米国というような責任分担はあいまいだったのです。私たちは、本当の意味で多国籍チームとして機能していました。製品デザイン、人間工学、ソフトウェア、その他さまざまな主要部分において、日米双方から貢献がありました。たとえば音声合成や音楽などの機能を持ち、革命的なサウンドエフェクトを生み出したVICチップですが、これはバレーフォージを拠点とするMOSテクノロジ [*3] が開発しました。デザインワークの多くは別のコンピュータ (カラー版PET/CBM [*4]) から起こしたもので、カリフォルニアのサンタクララで描かれました。かなり多数におよぶソフトを開発したのは、ヨシ氏 [*5] と彼の率いる少数の日本人チームです。人間工学的な部分はほとんど私が決定を下しました。もっともそういう決定には、ジャック・トラミエル氏にも確認のため立ち会ってもらいましたけどね。最終的な決定権はジャック氏にあったわけですが、主要な決定の大半 (コンピュータの名称、キーボードの様式、ケースやキーの色合い、ファンクションキーを付加する決定、内蔵RS-232、その他人間工学的な部分) は私に任されていました。


リック・メリック氏とのインタビューではこうおっしゃっています。「(VIC-20は) 日本ではVIC-1001と呼ばれました。『2001年宇宙の旅』の映画が人気だったのと、日本では20より1001のほうが、明らかに『フレンドリ』だったからです」   しかしながら―――不躾なことを言うようですが、「1001」をフレンドリな数字として認識している日本人はほとんどいません。ですから、どうしてそのようにお考えになったのか、なかなか理解できないのです。当時日本で成功を収めていた、NECのPC-8001の存在が意識されていたのではないかと推測しているのですが。


トムチュク氏:
この名前を決めたのは日本の東海太郎氏 [*6] です。私は日本の製品名には関わっていません。フレンドリであるにせよないにせよ、この名前は日本人である彼の考えに則しているわけです。私はそれ以前に日本への訪問を果たしていて、すでにNECのコンピュータを見ていましたので、そのあたりのことに言及しておきましょう。素晴らしいコンピュータだと思う一方で、大きな脅威だと感じました。NEC製コンピュータの美しいファンクションキーに魅せられて、私はVIC-20の設計にあたっても、ファンクションキーは絶対に欠かせないと主張しました [*7]。私は、もしNECのコンピュータが大々的に米国で宣伝を打っていたら、独自のマーケットを開拓できていたはずだと信じています。しかしコモドールでは私の発案による「森の熊」作戦を実行に移したので、NECはその優秀な製品を進出させることなく終わったのです。森の熊作戦がどういうものだったかを説明すると―――森の中で熊に追いかけられたら、どうすればいいか分かりますか? ナップサックを投げ捨てるのです。熊は立ち止まって、これはなんだと吟味しはじめますね。追われている人間はその間に、がむしゃらに走るなり、大慌てで木に登るなりすればいいわけです。じゃあ今度は、あなたが米国のプロダクトマネージャだったとしましょう。さて、日本製品が執拗に追随してくるわけですが、この場合はどうすればいいでしょうか? 低価格でユーザーフレンドリなコンピュータ (VIC-20) を投げ捨てるのです。日本人が足を止めて吟味している間 (当時は半年から一年の足どめになったのですよ!) に、さらに優れたコンピュータ (コモドール64) を無我夢中で作ればいいのです。コモドールにおける私の戦略の大半は、日本の競合勢力を寄せつけないようにすることだったといえます。そういうことになったのは、私自身二年間アジアに住んでいたおかげで、日本の大手がホームコンピュータを推進してくる危険性を察知していたからです。私の在籍中、コモドールの戦術は、日本製品の進出を阻むべく、低価格と高性能を維持する方向に向かいました。つけ加えておきますが、日本人は競争相手であるとともに、本当に素晴らしい技術同盟でもありましたよ。私たちはソニーのような会社の公正さと献身ぶりを、大いに評価したものです。彼らは革新を共有し、これから来るものを予見させてくれました。ラップトップで実用化される5年も前に、アクティブマトリクス液晶を見る機会があったのを憶えていますよ。その当時はセル一個につき125ドルもしていましたけど!


HAL研究所について、何かご存知ないでしょうか。VIC-1001初期のゲームカートリッジを多数開発していたメーカーです (少なくとも「ジュピター・ランダー」「スター・バトル」「ポーカー」「ロード・レース」「マネー・ウォーズ」は確実で、「ジェリー・モンスター」「エイリアン」「モール・アタック」「スロット」などもそうではないかと推測しています)。HAL研究所はいまでこそ任天堂と強力に結びついている人気ゲーム会社ですが、当時はまだとても若く小さく、VIC-1001が発表されるわずか7ヶ月前に、社員数人でスタートを切ったばかりでした。コモドールはなぜこの会社に重要な役割を与えたのでしょうか。


トムチュク氏:
「ジェリー・モンスター」 [*8] も日本でプログラムされたはずです。当時カートリッジベースでヴィデオゲームを作ることのできる集団は、世界じゅう探してもほとんど存在しなかった [*9] と記憶しています。

アタリのゲームは悲しいくらい粗雑なものでした。世界最高のゲームがある場所といえば、アーケードやバーなどだったわけですが、そこではバリー・ミッドウェイとともに、任天堂が大きな役割を演じていました。ひところ、私はコモドールのコンピュータに任天堂のゲームを全部移植したいと考え、任天堂と契約交渉を行っていたのです。家庭用コンピュータで自社のゲームが動くようになるという期待感で、任天堂の面々はかなり興奮していました。ところが土壇場になって―――まさに契約書にサインしようかというそのときにですよ―――なんの前触れもなく、ジャック氏が「君の扱っている契約はキャンセルする方向で進めている」と言い出したのです。おかげで私は大恥をかき、結果的に面目丸つぶれになりました。私はホームコンピュータの福音を任天堂に説いたわけですが、彼らが家庭用ゲーム機市場に乗り込む決意を固めたのは、これが直接的なインパクトを与えたためだと信じています [*10]。なぜなら、私がラインセンスの件で接触をとるまで、任天堂はそういうことをあまり真剣に考えていなかったからです。私は自社のコンピュータで「ドンキー・コング」ほかのゲームを動かしたいと狂おしいくらいに願っていたので、ジャックのあの決定をいつも恨めしく思ったものです。ジャック氏が任天堂を冷遇したのは、バリー・ミッドウェイとすでに合意に達しようとしていたからでしょうね。


VIC-20に次いで登場した、マックスマシーンの背景について教えてください。この機種に関する情報は非常に少ないのですが―――マックスマシーンは、そもそも何が「マックス」だったのですか?


トムチュク氏:
マックスマシーンは、我が家に一台あります。この黒く小さな機械が、ホームコンピュータ分野に革命を起こすはずだったのです。私はホームコンピュータには四種類のキラー・アプリがあることを確認していました。この四種類すべてとともに、256語のボキャブラリを音声合成出力する素晴らしい機能が、マックスのハードウェアには内蔵されていたのです (256語を研究し、選択したのは私です)。内蔵ソフトのバグ修正パッチやアップデートを、カートリッジによるプラグインとして供給する計画もありました。アプリケーションソフトはマザーボード上のチップに組み込まれているわけですから、カートリッジを使って問題解決したりグレードアップしたりするのは、非常に洗練されたやりかたです。


おや? トムチュクさんの語るマックスマシーンの姿や発売時期は、コモドールファンの知っているマックスマシーンとはまったく異なっています…? 私のいうマックスマシーンとは、コモドール64の米国発売とほぼ同じ頃に日本で発売された、コモドール64の廉価型のことだったのですが、これとは明らかに別物ですね。大変興味深いです。もう少し詳しいお話をお聞かせいただけますか?


トムチュク氏:
私の述べたマックスマシーンは、コモドールの次世代機として設計され、組み立てられた実在の試作機です。当時私たちは、ソフト業者のサポートが貧困で、遅々として進まないことにいらいらしていました。そこで最良のソフトウェアをいくつかマシンに内蔵することに決め、そのライセンスを取得することにしたのです。どのマシンにもソフトが付いてくるとなれば、ソフト会社のほうでもありがたいですから、結果的に各社とも低価格でソフトをライセンスする準備を整えてくれました。これにより、当時コンピュータを使用する原動力となっていた四種類のキラーアプリ―――ワープロ、表計算ツール、データベース管理ツール、グラフィックツール―――を搭載することが可能になったのです。

マックスは黒光りするボディに灰色のキーを備え、ハイライトに赤を彩った小さなコンピュータでした。またコモドールが先駆けて発売していた低コスト・モデム [*11] を接続することもできました (初めて100ドル台で販売された、受話器コネクタに直接接続する仕組みのカートリッジ・モデムは、実は私のアイデアだったのです。当時コモドールのエンジニアには負担がかかりすぎていたので、外部の技術系会社にコンタクトを取り、この仕事はそちらに委ねました)。ともかくも、私たちが「次世代」ホームコンピュータと考えた新機軸は、このようなものでした。これなら初めてコンピュータに触れる人の前にも、その本当の「パワー」をさらけ出してくれたでしょうし、データベースや表計算などの機能にも、使用者それぞれに自分にあった使いかたを見出すことになったでしょう。私たちはまた、表計算ソフトやデータベースと組み合わせて使用するソフト―――ローン計算プログラムや、初歩的な会計プログラムなどといった「テンプレート」です―――を供給する予定でもありました。

不幸にも、マックスマシーンを製品として出荷することになるはずだったシーズンに、役員会の投票でジャック氏の社長解任が決まったのです。あとに残ったのは、コンピュータ産業については門外漢の、50歳台から60歳台の人々がほとんどでした。彼らの指揮には、もっと高い価格差益の得られるビジネスコンピュータ市場へと復帰すべきだ、という意向が強く滲み出ていました。このせいでコモドールの戦略は、パーソナル/ホームコンピュータからビジネスコンピュータ―――ヨーロッパ市場で売るためのIBM PCクローン機開発も含めて―――へと移行していきます。コモドール終焉への道のりは、ここから始まったのです。マックスマシーンの発売中止はその合図だったといえるでしょう。最終デザインまで行っていたマックスマシーンは―――先にも示唆しましたが、その試作機はいまでも我が家にあります―――ジャック・トラミエル氏が社を去ったあと、これを継いだ経営チームに握りつぶされてしまいました。


なるほど…。こちらのマックスマシーンは、その直後に発売されることになる、コモドールPlus/4の原型のようですね [*12]。少なくともPlus/4は、マックスの「四種類のキラーアプリ」というコンセプトと、黒いボディにグレーのキーボードという外観を継承しています。しかしこれは、次世代機となるにはあまりにもお粗末なものでした。マックスとPlus/4の関係はどういうものだったのでしょうか。


トムチュク氏:
Plus/4は一度捨てられたマックスのコンセプトを救済したものです。しかし1984年にプロダクトマネージャや技術スタッフが一斉退職していたために、強力なサポートを欠き、市場では低迷することになりました。

容易に想像できると思いますが、ジャック・トラミエル氏が去ってからの半年間は、私にとってもその他の社員全員にとっても、とりわけ屈辱に満ちた日々でした。もっとも、新参の「プロフェッショナル」な経営者グループは例外でしたけどね。コモドールが世界のホーム/パーソナルコンピュータをリードするまでになったあと、彼らは会社をどうしようもなく駄目にしてしまいました。私のキャリアのなかでも、あそこまで市場支配力を無駄遣いしたり、悲惨な戦略的判断を生み出したりした例は見たことがありません。率直な話、なぜもっとたくさんの連中が株主に告訴されないのか、いつも不思議に思っていましたよ。

ジャック氏が出ていって半年後、1984年5月のある運命的な一週間に、社内でもっとも優秀な35人ほどの才人たちは、全員退職しました。一流の中間管理職と技術監督チームのほとんど全員 (私やコモドールUSAの社長、トップエンジニアの大半を含む) が、この一週間に辞めています [*13]。アーヴィング・グールド氏 [*14] を含む経営の上層部は、去るものは追わずの姿勢でした。彼らはこの卓越した企業を支える「天才と神童と第一人者」を、みすみす外に逃がすような真似をしたわけです。単に「残ってくれ」と言いさえすれば、何人かは残ったでしょう。しかし上層部は、これにより会社を「ビジネス」コンピュータ企業として再編成できると考えたのです。これが最悪の戦略だったことは、その後の財源と利益と株価の破綻を見れば、誰の目にも明らかです。

「連続ドラマ」の住人みたいになるのは好みませんが、かくも多くの人材が流出したときに、経営者や法律担当者は、去ろうとするものたちに文句を言い、場合によってはストックオプションの合法的な運用を妨げようとしたり、未払いの給料小切手受け渡しを拒もうとしたことさえありました。私も自分の登録した株や、残りの小切手を手に入れるために、アーヴィング・グールド氏に個人的なメモを渡さなければならないときがありました (アーヴィング氏はただちに行動を起こし、助けてくれました。このことは付け加えておくべきでしょう)。なんにせよ、こういう敵意に満ちた態度が、真の「マックス」のようにホットな製品を死に追いやった理由の説明になるかもしれません。ジャック・トラミエル氏および彼の築いたチームからの過渡期は、政治的な部分で、浅墓と混乱をきわめました。これ以降会社に起こったことには、この騒動の結果がすべて反映されているのです。

しかしなんという混乱だったことか。そこかしこに嫌な後味を残していますよ。コモドールの「死」を要約すると、ジャック・トラミエル氏退職後、創造力の核だったものが組織の外に吸い出され、あとに脱け殻だけが残ったということになるでしょう。ジャック氏以降に会社を運営しようとやってきた経営者チームが、次々と波のようにみせた愚劣ぶりには、完全に失望しました。心に留めておいてください。コモドールは1984年には、世界的に主要なコンピュータ企業だったのです。テキサス・インストゥルメンツやアタリをはじめとする、多くの競合勢力にも打ち勝ってきました。コモドールは、自滅しないようにさえしていればよかったのです。ええ。ああでも、常軌を逸して崩壊してしまう可能性は、どんな企業にも付きものですね。そして、コモドールの伝説は明確にそれを実証してみせたのではないかと思います。


日本版マックスマシーンはコモドール64と同じ月にアナウンスされました。当初はアルティマックスと呼ばれていましたが、その後マックスマシーンやVC-10に名称を変え、カナダ、ドイツ、日本で発表されます。しかし大規模に販売されたのは日本のみででした。コモドールがこの機種を日本市場に集中させたのは、なぜだとお考えですか。


トムチュク氏:
まず第一に、コモドールでは名称が頻繁に変更されるのが普通でした。ときには、反応を見るためだけに作ったモデルをコンピュータショウなどで紹介することもありましたよ。そうやって強い需要が見込めるものだけ、商品化を推進していたのです。コモドールは先にも述べたように優れたエンジニアチームを擁していたので、市場に出せるほど質の高いプロトタイプを、ごく短期間 (半年から九ヶ月超) で作り上げ、コンピュータショウに送り出すことができたのです。どの製品を設計すべきか、あるいは見送るべきかという判断は、そこでの手応えで決定していました。ところで、私がVIC-20に付けた最初の名前は「コモドール・スピリット」というものでした。なかなかいい意味が込められていると思ったものですが、いよいよという段になって、日本の仲間が「日本人は『スピリット』という言葉を聞いても、『素晴らしいエネルギー』とは捉えないし、『キャスパー・ザ・フレンドリ・ゴースト』のアニメを思い出したりもしない。むしろ不気味で恐ろしい、残忍なものを連想しそうだ」と教えてくれたのです。そこで第二の選択肢、つまりVICで行こうということになりました。VICだけだとトラック運転手みたいな名前になると思ったので、独断で20という数字を付け足しました。20がフレンドリな数字だからです。

さてご質問の件についてですが、コモドール国際支社の支配人たちは、ほとんどの場合、製品を自社のマーケットにあわせてカスタマイズすることが許されるという、きわめて大きな権限を持っていました。コモドールが実に器用にやっていけていた秘密のひとつが、これなのです。各国のマネージャたちには、コアとなるテクノロジを、それぞれの地域のホームコンピュータ市場に最適と思われるかたちにアレンジする自由が与えられていました。いずれにせよ、東海太郎氏は日本版マックスに可能性を見出して、それをマーケティングしてみたのではないでしょうか。米国の経営チームは、まったく別方向に関心を向けていましたから。


トムチュクさんは1984年に『ホーム・コンピュータ・ウォーズ』という本を執筆しておられます。ところでコモドール64が発売されたころ、日本でも『ホーム・コンピュータ・ウォーズ』が勃発していたのです。日本版マックスマシーンとほぼ同時期に、トミーのぴゅう太、ソードのm5などが発売されました。マックスマシーンは競合製品のなかでもっとも安価だったわけですが、子供たちにとって明らかに目新しさを欠くものだったのが残念です。日本の低価格コンピュータ市場で最後まで生き残ったのはMSXでした。ところがMSXは、北米市場ではコモドール64やアタリXLの足元にも及ばず消えています。MSXについては当時、どのような印象を抱かれましたか。


トムチュク氏:
「ホーム・コンピュータ・ウォーズ」が実際に出版されたのは1986年のことです。MSXのシステムについては―――たしか一人の日系アメリカ人が、共通規格を導入して連合するようにと、アジアの12企業に呼びかけたのですよね。同じ規格を共有するゲームマシン/ホームコンピュータのファミリーを形成することで、理論的には、多くのマシンで動作する膨大な量のソフトウェアを供給できるようになると。そうなれば、ソフト開発者も一本分の労力で12機種に対応できるわけです。この12企業がそれぞれの影響力と宣伝予算を行使して、大きな競合勢力として米国市場に乗り込んでくる可能性は、コモドールを悩ませる悪夢でした。MSXの戦略を知ったとき、私は非常に心配になって、実際にどういうことをやろうとしているのか、もっと詳しく調べてみたのです。そうしたらなんと、12企業は一杯食わされて、時代遅れな二年前の技術を採用しているではありませんか。不細工で、遅くて、面食らうほど粗いグラフィックは、明らかに見劣りするものでした。ある見本市ではじめてMSXを目にしたときには、一日中笑いが止まりませんでしたよ! 私は爆笑しながらあちこち歩きまわり、誰かがMSXについて口にするのに出くわすたびに「要するにMSは終わったってことだね!」と声高に叫んだものです。こんなひどいテクノロジーが市場で日の目を見るわけがないことは分かりきっていましたから。MSX連合がなぜこのテクノロジにもっと細かく配慮しなかったのかは知りませんが、戦略をまとめたのがたぶん日系アメリカ人で、日系だからという理由で信任を得ていたのではないでしょうか。それ以外にあんな粗雑なオペレーティングシステムを使ってみようとした理由が思いつきません。惨憺たるありさまですよ [*15]。


コモドール・ジャパンは日本版コモドール64に対する販売意欲を欠いていたように見うけられます。少なくとも、彼らは日本版マックスマシーンのほうにより積極的でした。ですから日本ではコモドール64人気が起こりえなかったのだと思います。米国市場で流通していた豊富なソフトウェア資産が、なぜ日本版コモドール64にもたらされなかったのか不思議です。コモドールは早い段階で日本版「ホーム・コンピュータ・ウォーズ」に見切りをつけていたということでしょうか。


トムチュク氏:
うーん、日本にはNECの製品など、コモドール64より優れたコンピュータのモデルがあったように思います [*16] 。コモドール64はいわば「ホームコンピュータ」から「パーソナルコンピュータ」への掛け橋でした。米国のユーザーたちがPCやMacにアップグレードするようになったのは、コモドールがコモドール64に見切りをつけ、アミーガやPC互換機などを優先するようになったころだと思います。コモドール64は踏み石にされてしまったわけです。もしコモドール64を発展させていたら、コモドールブランドに対する信仰を活かして、さらに強力なコンピュータへと移行することもできたでしょうし、コモドール64やVICのユーザーたちに、アミーガかそれに近いシステムへの買い換えを促すこともできたでしょう。しかしジャック・トラミエル氏を継いだコモドールの経営者は、数年におよぶ販売で培った数百万のユーザーベースを、どうやって活用し、上位機種に移行させればいいのか、理解できなかったようです。

彼らはコモドールシリーズとアミーガシリーズを繋ぐ糸を、なにも考えずに断ち、アミーガで事実上最初からやり直しました。VICとコモドール64のファミリーが確立した、ブランドとしての価値を見捨てたのです。ええと、誰にでも家電製品のマーケティングが理解できるとは限らないとは思います。しかし私には非常に単純なことに思えたのです。

ところで、コモドールが存続の危機に立たされつつあったとき、私はいても立ってもいられなくなって、なにかアーヴィング・グールド氏と当時のCEO (この人の容貌は驚くほどジャック・トラミエル氏に似ていました!!!) の役に立てないものかと、ニューヨークに向かったのです。しかし彼らはどうやって会社の健康状態を立てなおし、救済を手助けすればいいかということを尋ねようとはしませんでした。それどころか私をまだ「プロダクトマネージャ」扱いして、ゲーム機の開発に乗り出したいから助けてほしい、なんて言い出だしたのです。彼らは私をほとんど半日足どめしましたが、そのあいだに味わった屈辱は途方もないものでした。話がコモドールの「先人」たちに及ぶこともあったのですが、部屋の中の誰も、私の話している内容を理解できなかったのですよ。戦慄しましたね。1990年代なかばまでに、コモドールは企業としての記憶を完全に失って、土台となる知恵と才能はもうごくわずかしか残されていないのだ―――私はそう気付かされたのです。悲劇的な終幕に心が痛みました。こんな人たちとのミーティングが終わるまで、ニューヨークから去るのを待ってはいられませんでした! トーマス・ウルフの著した通り。まさに『汝故郷に帰れず』ですよ!

私としては、ホームコンピュータ時代の幕開けに、多くの先駆者たちとともに小さな役割を演じる機会があったことに満足していますし、格別に誇らしく思っています。そして現在、ほとんどすべての家庭にコンピュータが行き渡り、誰もがコンピュータ通信で接続できるようになったのを目にして、さらに満足しています。なぜなら私たちは、そうなる日のことを、いつも心に思い描いていたわけですから。

*1 VIC-20
10万円を切る価格帯で発売された初のカラーコンピュータ。1980年10月にVIC-1001の名称で日本先行発売。米国では、使い勝手も価格も大衆的な「フレンドリ・コンピュータ」であることを強調し、世界で初めて100万台以上普及するコンピュータとなった。日本国内でも人気があったが、同路線で追随してきたNECのPC-6001や日立のベーシックマスターJr.を前に、苦戦を強いられることになる。

*2 コモドール64
1982年9月発売 (国内発売もほぼ同時期)。入門機VICの後を継ぎ、普及機路線の新型機として登場した。内蔵BASIC言語以外にVICとの互換性はない。当時のホビー機としては目立って高性能でありながら、ゲーム機も寄せつけないほどの低価格化を実現したため、最終的に3000万台販売というギネス記録を達成している。もっとも日本ではそれほど安価にはならず、またマーケティングが不首尾に終わったこともあり、鳴かず飛ばずのまま消えていった。世界では現在なお多数の現役プログラマたちが活躍しており、ユーザー間の交流も盛んだ。













*3 MOSテクノロジ
当時の代表的な8ビットCPUのひとつ、6502を開発した半導体メーカー。1976年にコモドールに買収され、のちにコモドール・セミコンダクタ・グループとなる。コモドール製コンピュータの主要部を担うユニークなチップを数多く開発したが、コモドール本社に先駆けて1992年に倒産している。

*4 カラー版PET/CBM
最初期のコモドール製コンピュータ・PET/CBMシリーズの次期モデルとして開発されていたもの。VICの開発計画が持ちあがったことでお蔵入りになったと推測される。ビジネス色の強いPET/CBMから、完全ホビー路線であるVICへの移行は、コモドールの社史における重要なターニングポイントとなった。

*5 ヨシ氏
ヨシ・テラクラ氏。おそらくはコモドール・ジャパンのエンジニア。当初否定論の根強かったVIC-20開発計画に賛意を示した、最初の技術者だったようだ。

*6 東海太郎氏
当時のコモドール・ジャパン副社長 (実質的責任者)。氏もまた当初からのVIC推進派だった。日本法人の実際の社長は、ジャック氏の長男であるサム・トラミエル氏。のちにアタリ・コーポレイションのCEOとなり、アタリを家庭用ゲーム機メーカーとして復権させようとした人物だ。

*7 ファンクションキーは絶対に欠かせないと主張しました
VICはファンクションキーを配した最初の海外製コンピュータだった (アルテア8800全盛期にヒューレット・パッカードがリリースした、限りなくコンピュータに近いプログラマブル電卓・HP-9825を例外としての話だが)。VICの一年前に登場していたアタリ400/アタリ800にも、ファンクションキーに似た補助ボタンは見られる。こちらはキーボードの右端に縦並びでボタンを配列していたのだが、VICのファンクションキーもこの配列に倣っている。ところがPC-8001をはじめとする国産機のファンクションキーは、上端に横並びで配置されている。同じファンクションキーとはいっても、両者はだいぶ趣が異なるのである。VICの少しあとに登場したIBM-PCにもファンクションキーが用意されていたが、これも縦並びだった (こちらは左端に配置)。海外の主力機に横並びのファンクションキーが見られるようになるのは、アミーガあるいは101キー配列のIBM-PC/XT以降である。なお101キー登場の経緯については「101鍵盤の発表」 (鍵人) が実に詳しい。ともあれ、こんなところにも国内外の違いが表れているのは興味深い。


























*8 「ジェリー・モンスター」


「パックマン」のVIC-20移植版。日本ではHAL研究所がコンピュータへの移植権を持っており、そのまま「パックマン」として発売されたが、北米ではこのゲームの移植権をアタリが握っていたため、「ジェリー・モンスター」と改称することで衝突を避けようとした。しかしアタリはこの種の無許諾移植に容赦なかった。当時はまだゲームソフトの著作権が確立するかしないかという頃だが、アタリは「パックマン」もどきを次々と販売停止に追いやっている。「ジェリー・モンスター」はその最初の標的となった。ハードウェアのスペックを考えれば実に秀逸な移植で、二年後に登場したアタリの正規版よりも原作に忠実。HAL研究所がすでに世界レベルの開発力を持っていたことが分かる。北米ではほかにも「ギャラクシアン」が「スター・バトル」として、「ラリーX」が「レーダー・ラット・レース」として発売された。

*9 世界じゅう探してもほとんど存在しなかった
家庭用ゲーム機やコンピュータ用のソフトウェアカートリッジを「現役で」開発しているメーカーは、この時点ではアタリ (アタリVCS/アタリ400/アタリ800), マグナボックス (オデッセイ2), APhテクノロジ (インテリヴィジョン), 科学技研 (スーパービジョン8000), テキサス・インストゥルメンツ (TI-99/4) およびそのセカンドパーティであるミルトン・ブラッドレイとスコット・フォースマンぐらいしか存在していなかった。もちろんこういったライバル企業たちと容易に連携できるはずもない。小さいながらもハードとゲームソフトの両方面で開発ノウハウを持つHAL研究所は、貴重な戦力だったことだろう。HAL研究所はすでに、PET/CBM用にグラフィックを強化する周辺機器を開発し、人気アーケードゲームを移植するなどして、コモドールが目を留めるのに十分な実力を発揮していた。

*10 これが直接的なインパクトを与えたためだと信じています
任天堂が家庭用ゲーム機の世界に舞い戻り、ファミリーコンピュータの開発に着手したのは、1981年8月のことといわれている。したがってトムチュク氏の話は時期的にも辻褄があう (そしてバリー・ミッドウェイのVIC-20移植作は翌年早々に登場している)。コモドールとの提携が流れたあと、今度はコレコが任天堂との契約交渉に入り「ドンキーコング」の移植権を獲得した。コレコはこれをキラータイトルとして、欧米で新型ゲーム機・コレコビジョンを爆発的にヒットさせたのだから、なんとも皮肉なエピソードだ。











*11 コモドールが先駆けて発売していた低コスト・モデム
電話回線を介した個人用コンピュータのネットワーク、いわゆるパソコン通信は、アメリカではすでにアルテア8800の時代から行われていた。しかし本格的に浸透しはじめるのは、1980年にコンピュサーブがオンライン情報サービスをスタートして以降のことだ。当時モデムはコンピュータ本体と同じくらい高価な周辺機器で、一般的な価格は一台400ドル程度だった。破格に安いコモドールのモデム、通称VICモデムの登場は大いに歓迎され「ホットケーキのように売れた」そうだ。これがパソコン通信を大衆へと普及させる、最初のブレイクスルーとなったのである。なお日本でパソコン通信の普及が始まるのは、1985年の電気通信事業法施行以降と、かなり遅れる。





















*12 コモドールPlus/4の原型
音声合成機能の存在から、数台だけ作られたPlus/4の試作機、V364ではないかと思われる。





























*13 この一週間の間に辞めています
上層部の数名は、そのままアタリに移籍している。コモドール・ジャパンの東海太郎氏もこの翌月、アタリ・ジャパンの社長に就任した。そしてさらに翌月、コモドールを去ったジャック・トラミエル氏が、アタリをほとんどまるごと掌中に収めるのである。アタリはゲーム機中心からコンピュータ中心へと大きく姿勢を変え、コモドールの強力なライバルとして再出発する。―――ところでそのころ、ある企業がアタリのために新型16ビット機を開発していた。しかしジャック氏が来てからどうもアタリと話が噛み合わなくなってしまったため、彼らはコモドールに歩みより、そちらで新型機を扱ってもらうことにしたのである。コモドールは翌1985年、この新型機をアミーガ1000として発売する。コモドールがアタリ化し、アタリがコモドール化するという、奇妙なクロスオーヴァが起こっていたわけだ。

*14 アーヴィング・グールド氏
当時のコモドールの大株主。コモドールを何度か深刻な経営危機から救ったことで、大きな発言力を持つようになっていた。ジャック氏は退陣の理由を「個人的な事情でコモドールに専念できなくなったためだ」と説明しているが、実際のところは、ジャック氏の思い描く重役の後任人事が、アーヴィング氏のそれと折り合わなかったことが、直接的な要因になったといわれている。

















































































































*15 惨憺たるありさまですよ
MSXについてはいろいろ誤認があるので、愛好者にはほとんど暴論に聞こえるかもしれない。しかしMSXのアメリカ上陸は1984年5月のことで、MSXとほぼ同じスペックを持つコレコビジョンが登場してから、二年近い歳月が流れていたのは事実である。コモドール64はただでさえ性能面で優勢なうえ、圧倒的な低価格化を推進し、しかもこの頃には豊富なソフト資産を擁していた。MSXが相対するには、あまりにも巨大な相手になってしまっていたのだ。

*16 コモドール64より優れたコンピュータの機種があったように思います
トムチュク氏はこう言っているが、少なくともコモドール64の発売時点では、10万円を切る価格帯に比肩しうるマシンは存在していなかった。強いていえば、直後に登場したシャープのMZ-700が最初の同クラス機といえるかもしれないが、コモドール64は一段表現力の劣るこのマシンにさえ、大きく遅れをとっている。その後一年近く経ってから、NECがPC-6001の後継機として、PC-6001mkIIを発売する。改めてスペックを見比べてみると、PC-6001mkIIはかなりコモドール64を意識して設計されていたように見うけられる。両者は価格も基本スペックも (カタログ上は) きわめてよく似ている。しかしPC-6001mkIIはPC-6001の上位互換機として過去のソフト資産を活用できたし、漢字表示や音声合成など、コモドール64にはないユニークな特徴も備えていた。この強力なライバルの登場で、コモドール64は独自のセールスポイントをほぼ失ってしまったのである。こうしてPC-6001シリーズは10万円以下の価格帯を制しようとしていたのだが、ローエンド機としてはあまりに強力になりすぎ、皮肉にもNECの本流であるPC-8001シリーズまでをも脅かす存在となってしまった。結局PC-6001シリーズは早々に断念されることとなり、ロングヒットにいたらず終わる。結果的に日本で8ビット機の主流となったのは、一ランク上の高解像度機たち―――すなわちNECのPC-8801シリーズ、シャープのX1シリーズ、富士通のFM-7シリーズなどだった。



[ 将来について一言 ]
〜トムチュク氏より

将来のことを考えるとき、私はテクノロジにおける次なるトレンドは、ワイヤレスコンピューティングになるだろうと考えています。まだ可能性が見えはじめたばかりの段階ですが、私が見てみたいと思っているのは、こういうものです――― 1) (日本のDoCoMoのように) フルモーション映像を映し出す携帯電話。これには4Gから5Gの電気通信基盤と、端末の改良が必要です。 2) オフィスのデスクトップコンピュータで利用できるワイヤレスケーブルテレビ (我が家にはありますが、オフィスで仕事をしながらニュースを見たいのです!) 3) 医療診断および生命科学と次世代スーパーコンピュータの収束。4) シームレスにシステムをアップデートし、手間をかけずに新しいバージョンのソフトへと移行できる、より優れた自動修正ソフトウェア。私はまた、我々はようやく電気製品や車/トラックなどでマイクロコンピュータが使われるのを見るようになったところだと思うのです―――こういう方面もまた、ワイヤレスコンピューティングに左右されるでしょう。

ウォートン・スクールでの立場があるおかげで (私はスクール内で技術革新を研究しているマック・センターにおいて、最先端技術管理学のプログラムを統括管理しています)、私はこういう方面に多少なりとも影響をもたらしたり、その発展状況についてレポートすることができます。これからの数ヶ月間、私はさまざまな出版物で、こういった問題について語ることになるでしょう。

それではまた。

マイケル・トムチュク

Interviewed by Hally (VORC) on September 9th 2003

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